東浩紀のもとに帰る旅 『弱いつながり 検索ワードを探す旅』
一時間で読み終わりました。
一本の芯を通した人生論的なエッセイ。その一本の芯とは「東浩紀的」であるということですかね。
自分は東氏の著作に大きな影響を受けていて、『存在論的、郵便的』は難しくて理解しきれなかったものの、全体の8割くらいは読んでいるのではないでしょうか。『波状言論』という過去のメルマガデータが入ったCDも持っているくらいです。
だって大体において面白いですから。正しさとは別の次元で面白すぎる。小説も評論も全部面白い。最高に知的で刺激的なのです。
で、今作は副題にあるように「検索ワードを探す」というのがテーマになっています。
確か自分の記憶では、2010年に行われたホリエモン、宇野常寛氏とで行われたロフトプラスワンでのトークイベントで、すでにこの検索ワード問題にも触れられていました。ホリエモンがいわば「ネット万能論」のようなものを説く中、すでに彼はネットに対する諦めのようなものを感じていたようです。検索ワードを思いつかないんだよ、みたいなことを言っていた。
東氏はその後震災を経て、現在は福島第一原発観光地化計画に取り組んでいます。しかしですね、自分はそれにあまり興味がもてず、『思想地図』の観光地化計画シリーズは持ってはいるもののろくに読んでもいない状態です。
興味がもてなくなった原因は観光地化計画が政治的すぎた、のだと勝手に思っていました。もちろん単に政治の分野にいったのではないのはわかっていましたよ。いろんな分野を横断していることも。ある程度はコンセプトも把握していましたし。でもやっぱ政治だとかつまんないよみたいな気分はあったかもしれない。
ただ今回の本で、やはり東浩紀は東浩紀であると。どこにいようと彼は彼であって、面白いなと再認識しました。
そして面白いだけでなく、最近の自分と皮膚感覚としてかなり近いものを感じました。
「強いネットと弱いリアル」の話。
例えば私はこの7月になって新たにこのアカウントでブログ、Twitterを始めたわけですが、頑張ってサブカルブログなんかを書いてもね、まったくフォローも読者が増えないんですよ。まったくっていうのは文字通りまったくなわけです。0ですよ、0。超零細ブログです。今は1日10アクセスがいいとこですよ。サイドバーにTwitterアカウントへのフォロー誘導までつけたのに。まあ別にそれ目的でやっているわけではないのでいいのですが。
それに比べて強い人は倍々ゲームのようにアクセスもフォロワーもがしがし増えていくわけです。リアルでの格差がさらに拡張されてネットに反映されている感覚ですよね。いやというほど実感してる。はっきりした数字だしね。
言葉とモノの問題。
東氏は以前より電子書籍の登場で本の未来はどうなるか、という問題に触れるとき本が物理的に存在することが重要である。ということを述べているんですね。自分も『GHOST IN THE SHELL』が好きなこともあって、このモノ問題というのをよく考えます。
6月に阿部共実という漫画家にハマり、『空が灰色だから』という全5巻のマンガを買おうと本屋に行きました。しかし『空灰』は絶賛売り切れ中で、その時手に入れることができたのは3~5巻のみでした。やむなく1、2巻をKindleでダウンロードし、3巻からは本屋で買った「モノ」を読みました。素晴らしい作品で大変に感激しました。
1ヶ月経ったころ、『空灰』は増刷され全巻が手に入るようになりました。
このときに自分はなぜか1、2巻を「モノ」として欲しくなり、買っちゃったんですね。Kindle版を持っているにも関わらず。
で、なぜそう思ったのだろうということを考えました。
もし仮に作品が情報でであるなら(ホリエモンなんかはこういうことを言いたがる)。デジタルなデータとしてしか価値がないなら1、2巻を「モノ」として欲しくなるはずがありません。情報としてのあの作品はKindle版で事足りています。
ジル・ドゥルーズは『創造的行為とは何か』の中で
「芸術作品はコミュニケーションの道具ではありません。芸術作品はコミュニケーションとは何の関係もないのです。芸術作品には厳密に言って、少したりとも情報など含まれていません」
ということを言っている。
ということをドゥルーズbotがつぶやいてました(読んでない)。ドゥルーズの本意は(読んでないので)わかりませんが、自分はこれらを総合してこう考えました。
つまり芸術の価値とは「体験」であると。自分が『空灰』の1、2巻を「モノ」として欲しいと思ったのは「体験」をリアルなものに保存しようと試みたのではないでしょうか。0と1の羅列には体験を託すことができないと判断したのではないでしょうか。なんというか無根拠すぎるというか。電子的不安とでも呼びましょうか。
「体験」を「モノ」に保存する。
これって福島第一原発観光地化計画の話とおもくそつながる話ですよね。歴史遺産ってそういうことです。はい話がつながりました。おもくそつながりました。
んでまあ、このように実感とつながったことで、フクイチ観光地化計画がものすごく身近に感じてきたんですね。地続きになったというか。おもろいやん、と。政治の分野であることは関係がありません。やっぱり東氏は変わってないんだよ。わかってたけどね。ということで東浩紀のもとに帰ってまいりました。フクイチ本読みます。
でもやはり東氏には政治家でなく思想家や小説家であってほしいとは思っています。
政治家の仕事って最適なバランスを得るための調整みたいなところがあるじゃないですか。それはやはりこまごまとしすぎていて彼の想像力を削ぐように感じるのです。
そうではなくやはり東氏には思想家として、とにかくめちゃくちゃ面白いことを考えて外部からガシガシを刺激を与え続ける存在であってほしいです。観光地化計画は実践的な部分が多いので、予算だとか、政治家的な調整の部分は出てくるでしょう。だから観光地化計画なんてやめろ、ってことではなく、そんな調整なんかを気にせず、彼の想像力をフルパワーで発揮できる領域をある程度確保しておいてほしいな、と。んでそれは小説なのかなと思ってます。
ところでさきほどの『空灰』1、2巻をモノとしても買っちゃった問題ですが、自分が面白いなって思うのは、モノの1、2巻は読みなおしてないんですね。Kindleでは何回も読み直してたってのもあるけど。
つまりその「モノ」で読んでいない体験を偽装して保存しているのです。私の1、2巻には。これはなかなかおもしろいなと。
そろそろ終わろうかなと思ったところでふと思ったんだけど、東氏は今43歳ですよね。批評家の佐々木敦氏も46歳のときに、『未知との遭遇』というある種自己啓発、人生論的な本を上梓しました。
今までの仕事ぶりからして、そのような領域から最も遠くにいる人が、40を超えてからそういうものを書くようになるってのは何かあるんですかね。いや決して否定的な意見ではありませんよ。両氏の両作品とも好きですし。若いときは尖ってて避けてたけど書かないのも不自然かな、とか思ってくるのかしら。40というのは人生の中で何か大きな意味を感じる年齢なのかもしれない。
まあ偶然この二人が目についただけかな。ではでは。