御先祖様の鼻くそ黙示録

鼻くそのように生きた感想を記す

よつばと!13巻への違和感 「きゃりーぱむぱむ」、「プリキュア」、「iPhone」という固有名詞の登場について

よつばと!13巻読みました。

 

 

自分としてはみうらが登場しないのが残念でしたが、楽しんで読めました。

 

さて13巻はいままでのよつばと!とは今までより時代性を孕んだ固有名詞が多く登場しました。ブログのタイトルにも書いた「きゃりーぱむぱむ」、「プリキュア」、「iPhone」のことです。

今までのよつばと!はそういった時代性が孕んでしまうものを意図的に世界から排除して描かれているようでした。

よつばと!の第1巻は2003年の9月に発行されましたが、すでに現実世界ではそれから12年が経過しています。一方でよつばと!の世界はおそらくですが1巻から半年程度しか経っていないのではないでしょうか。

よつばと!10巻「よつばとでんきや」の回では携帯電話が登場しています。10巻の発行は2010年。世間的にもガラケーが依然として優勢だったように、電器屋にならんでいる携帯電話もガラケーばかりです。ふうかが使っているのもガラケーではないでしょうか。

その時点からおそらく数ヶ月しか経っていない中で、13巻、ばーちゃんはすでにiPhoneを使っています。また「きゃりーぱむぱむ」(ぱむぱむは架空のミュージシャンというわけではなく、よつばがぱみゅぱみゅと発音できなかった故にそのような表記になっていると思われます。プリキュアはそのまま出ているあたりを考えても)をよつばが知っていることから考えると、よつばと!の世界はきゃりーぱみゅぱみゅがブレイクした以降、おそらく2011年から今年、2015年あたりだと推測されます。

ガラケーがメジャーで、時代遅れのばーちゃんはiPhoneを使い、プリキュアきゃりーぱみゅぱみゅが存在している時代。これは設定がやや破綻しているように見えます。

カラオケで流れるビデオでは、携帯電話を登場させずストーリーをつくるという話を聞いたことがあります。携帯電話は短期間の間に大きくトレンドが変わります。古い携帯電話によって映像自体が古く感じてしまわないよう、あえて登場させないという工夫が行われているようです。

よつばと!も前巻までは携帯電話に限った話ではなく、全体の世界観としてかなりそういった配慮がなされた作品だと感じていました。しかし今巻であずまきよひこはそれらをかなぐり捨ててしまったように見えます。

重箱の隅をつつくような話に思われるかもしれませんが、これはよつばと!にとって非常に重要な問題です。

よつばは我々の住んでいる世界のどこかに存在しているのか、あるいは我々の住むこの世界の裏側にもう一つ世界があって、そこに存在しているのか。それによって作品のコンセプトや読者の受け取り方が大きく変わってきます。

例えばですが、よつばと!5巻の表紙とカバーはよつばと!の世界観を象徴したものになっています。もっている人は手にとってみてください。

 表紙だけを見ると、電車の中からよつばがいる駅のホームを写しているカットなのですが、カバーをとると全く同画角のよつばが消えた世界に変わるのです。これは先ほど説明した我々が住む世界の裏側の世界によつばが存在していることを示唆しているように感じます。あるいはよつばというフィルターをかけることでこんなに世界は美しく、楽しくなるんだよと。少なくとも我々と地続きの世界に存在していると訴えているようにはみえません。

 

正直に感想をいうと、今回の世界観の変更は少しがっかりしました。よつばと!はそれこそ『うる星やつら』や『サザエさん』のように「終わりなき日常」の世界ではありませんが、我々の日常とは違ったゆるやかにしか進まない別の世界でした。多分、自分はよつばをその裏側の世界に閉じ込めておきたかったんですね。ただ今回の13巻によってある程度時代を規定してしまった。現代と重ねあわせてしまった。よつばがこちらの世界に飛び出してきてしまった。

時代を規定しない配慮はよつばの過去にあえて触れないというルールともつながっていたはずです。髪が緑でおそらく外国人の子供が肉親ではないとーちゃんに育てられている奇妙さ。時代性も含めそういった奇妙さをすべてファンタジーに飛ばすことがよつばと!のルールだったはずだったように思うんだけど。

また、とーちゃんの名前が「葉介」だったことも発覚し、よつばはおそらく葉介の葉からとられている名前なんだなとか、急に裏の設定が露出してきています。

おそらくですがよつばと!はもう終わりが近づいているのではないでしょうか。時代をかなり規定してしまった以上、このあとの数ヶ月をまた10年間描くのは難しいでしょう。

これは推測でしかありませんが、あずま先生はいろいろめんどくさくなってるのでは?

 

とかぐちぐち言いながらもまあ楽しんで読んだのだけど。

微妙な違和感というか引っかかりを感じたので書いてみました。

どうぞよろしくー。

 

『インサイド・ヘッド』 カナシミはそんなもののためにあるんじゃない

『インサイド・ヘッド』見てきました。コピーにすごく惹かれたんですよ。

 

「なぜ、カナシミは必要なの…?」

 

 これは俺のための映画だと思って感動する気マンマンで行ったんだけどさ。なんか思ってたのと違った。まあ例によって泣いたんだけど思ってたのとは違う。

 この作品ではカナシミが家出を思いとどまらせる原動力になるわけです。発想の転換というか、非常にロジカルにカナシミの必要性を表現してる。してるんだけど、俺はね、俺は人間のカナシミは「何かのために」必要だとかそういうことじゃないと思ってるんですよ。ただカナシミが存在することを肯定してくれるような物語を期待していたんです。

 だってカナシミは最後に役にたったから必要ってことになってるけど、もし役に立たなかったらその感情は必要なかったの?

 例えば人がカナシミに暮れて自殺という選択肢をとったとする。このカナシミは不要でしょうか。この映画はこの種のカナシミを否定している。俺は人に自殺を選択させるカナシミすらも肯定してくれるようなそんな作品を期待していたんです。

 まあピクサーだし子供が多く見るものだから仕方ないとは思うんですが、前提となる思想がポジティブすぎて自分にはついていけなかった。家出を思いとどまることが、生きることが正しいという前提がこの作品にはある。

 家出してグレても、自殺したとしてもそのときの感情を肯定してくれるような作品が自分は好きです。古谷実の『ヒミズ』とか。

 

  あとヨロコビ見てたらやたらFacebookに投稿しまくるうざいポジティブなやつ思い出して腹たった。当たり前だけどドリカムは糞。

「THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦」を観てきたゾ

 まあ、押井信者といってもいい自分にとってもそんなに面白くはないですよ。

 やっぱりなんだかんだ、柘植のシンパの描き方が足りない。この世代は先代を引き継ぐ模倣しかできないというのなら、もっと丹念にその模倣を描かねばならんと思うのだ。

 あとテロによって日本が混乱している様子がいまいち見えない。例えばパト2は厳戒態勢の自衛隊と市民が写真を撮っている様子がダレ場で流れたりして、それが妙なリアリティを醸しだしていたのだけれど、そういうのも感じない。新宿に飛行船が墜落し、ガスがばら撒かれるところなんかもその役割を担っていたはずだ。

 ただ押井作品にこういう物語レベルの批判をするのは、ナンセンスな気がしてなんとなしに気が引ける。

 むしろ語るべきは特車2課や柘植のシンパが先代を模倣したことではなく、押井がパト2を「気持ち悪い」ほどに模倣してみせたことだ。

 このメタレベルの模倣についてはこれから何度か見ていくうちにもう少し考えたい。

 いや、なんで別に面白くもなかった映画を何回も見るんだ。仕方ない、それが信者の嗜みである。個人的にはもっと押井節満載であってほしかったが、それはやはりGARM WARS待ちか。

 

 ちなみに今日の昼間に劇場に行きましたが、客は自分ひとりでした。マズイですよ!

映画『ゴーン・ガール』、あまりにも絶賛されすぎでは?

 さきほどタマフルを聞いてたら『ゴーン・ガール』評をやってて宇多丸さんにもかなり絶賛されてました。リスナー評でも9割が好評価らしいのですが、正直そこまでかな?と思ったので少し。

 

 いや面白いですよ、間違いなく。原作を読んでいた自分としても面白かったです。

 ただ、自分が問題だと思うのはエイミーの描き方。タマフル内でも「女こええ!」とか言ってたのですが、自分はそうは思えませんでした。

 なぜならエイミーが自分の感情を操りすぎていて人間ではないように見えてしまうから。原作では終盤、エイミーは本気でニックが恋しくなります。ニックがテレビのインタビュー番組で謝罪している(ふり)のを見て、もとに戻れば幸せになれるのではと思うのです。本気で。要は自分の感情に振り回されるのです。

 ただ映画版はどうでしょう。原作では自分の中にある感情に振り回されるように家に帰ったエイミーが、その感情をコントロールしきっているようにみえてしまうのです。正確には、インタビューのところで心動いている様子が少し描写されるのですが、そこを広げていかない。その後の心理描写とのつながりに欠ける。んでこれによって「女こええ!」要素が削がれているように感じます。なぜなら人間としての実在感がないから。あれほどの用意周到さを持っていた女が、一時の感情に振り回されるところにリアリティは生じるのです。

 まあ、映画版は最終盤のテーマ性を際だたせるためにそのへんを削いだ気がしないでもないのですが、それによって失われているものもあるよねっていうはなし。

 なんだか原作厨みたいな話になってしまいましたが、そこまで原作が好きでもないんです。「イヤミス」との評価に惹かれて3月くらいに読みましたが、絶賛するまではいかないかなって感じでした。イヤな気分要素でいえば、『ちーちゃん』をはじめ、阿部共実の作品群のほうがもっとグロテスクでえげつないものを描いているように感じました。相変わらず阿部共実の話ばかりしてバカみたいだけど。

 映画版と原作、どちらが良いと感じたかというと、まあ、映画版かな?ベン・アフレックの腹がいいよ。でっぷりと。

 フィンチャー作品の中で最高では?との話もありますが、やはり『セブン』と『ファイトクラブ』は素晴らしいですよ。かなりいいけどそこまでじゃない。

 というわけで絶賛ムードに水を差してやろうという性悪エントリでした。

 あ、あと『インターステラー』は大変に素晴らしかったのですが、個別に記事を書く時間もないし、感想もまとまりきらないので年末にアップするであろうなんでもランキングベスト20の記事の中で少し触れます。

 

『3月のライオン』10巻を読んで、自分は羽海野チカ先生から嫌われるタイプの人間なんだろうなと思った

 『3月のライオン』最新刊読みましたよ。

 好きなんですよ。いいんだけどさ、でもやっぱりこの作品は「正しすぎる」んですよ。自分にとっては。以前阿部共実について書いたエントリでも触れたんですが、


阿部共実を「読んでしまった」運命 『おもいでをまっくろに燃やして』2話 『どうせ幽霊は僕だけを殺してくれない』 - 御先祖様の鼻くそ黙示録

 

 かねてから自分は人間には「正しいもの」と「正しくないもの」の両方が必要で、そのどちらかが欠けてもバランスを失うんじゃないかと考えています。

 この「正しい」の感覚は自分の中にあるだけでうまく言えないのですが、漫画でいうと、『3月のライオン』。言うまでもない人気作品で自分も好きなのですが、あれを読んでいるとなんか正しすぎて読んでいるのが辛くなるような感覚があるんですよね。この登場人物たちは自分とは別の世界の人たちで、もし自分がこの世界にいたらこの人達に嫌われているんだろうなとか。

 

 こういうふうに書いてたんですよ。んでそれを10巻で再実感したというか。

 具体的にいうとお父さん(クズ)が川本家にやってきて、桐山くんに完全に抑え込まれるというかボコられるあの感じ。ネットみてたら桐山かっこよすぎだろ、とかみんな書いてるんすよ。友達も言ってた。

 でも自分的には桐山くんには全く感情移入できなくて、お父さん(クズ)側に肩入れしちゃうんです。ずっと年下の子が自分に比べて圧倒的に優れていて、しかも人間的に素晴らしく、正しいと感じてしまったときの惨めさ、みっともなさ。しかもいかにも女性受けしそうな草食系の男の子。まじしんどくね。

 んでもっとしんどいのは、羽海野チカ先生が明らかにああいうお父さん(クズ)みたいな人間を嫌ってることがビンビンに伝わってくることなんです。羽海野先生は優れた漫画家ですから生まれながらにしての純粋悪が存在するような描き方はしないわけです。悪になるにもバックグラウンドとなるドラマがあって、という描き方をするわけです。例えばこのクズの場合でいうと、一旦躓くとモロいエピソードが語られますよね。ちゃんとそこを理解してる。理解してるんだけど、嫌いなことはビンビンに伝わってくるんです

 んで『3月のライオン』ファンもみんなあのお父さんのことが嫌いだと思うんです(違ってたらすみません)。なんてったって卑劣ですから。「桐山、今や。このクズやったれ」的な感じだと思うんです。お父さんは作品内外ともに四面楚歌なんです。4×4で十六面楚歌なんです。可哀想ですよ。

 いや可哀想じゃないですよ。あんなクズはめちゃくちゃにやりこめられて当然です。自分はあのお父さんが悪くないとかいってるわけじゃないんです。自業自得です。当然ですよ。

 でも自分があの作品の中に存在したらきっと一番近いのはあのクズだろうなと思うんです。んでその人が袋叩きにあうのはなんとなく心が痛むというか。そういう意味で読んでて辛くなるような感覚は『3月のライオン』を読む際にいつもつきまとってます。正しさの圧力っていうか。桐山くんのようなまっすぐな、正しい存在になりたいって気持ちはわかるんです。自分の好きな人達を大切にして、裏切らず、努力も怠らない。自分もできればそうなりたい。でもそんなに正しくいられないよって。

 だって桐山くんみたいな子とか存在しないでしょ。女性の草食系男子願望むきだしというか。羽生結弦くんに求められてる何かを感じるよね。

 それよりはクズでもいいから等身大の自分に近いああいうクズのほうがよっぽど人間味があって共感できるんです。残念なことに。別に誰かにわかってよとも思わないし、きっとただの甘えなんだろうけどさ。別にこういう層の人間に羽海野先生が配慮すべきだとか微塵にも思わないし。

 

 んでここまで書いといてなんだけど、やっぱ自分はそこそこ『3月のライオン』ファンなんだよね。単純に漫画表現として羽海野チカ先生は本当に素晴らしい。でも多分自分とは違う思想で生きていて、自分のような人間を好いていないんだろうなあって。んで、この作品は自分の救いになるようなものではないなって。

 まあまとめると、自分がクズなのでクズに共感しましたっていう話でした。

 

 

 

背後に誰かの影を見ない恋愛なんて存在するの? ヒッチコックの『めまい』

 原題は『Vertigo』。

 LibertinesにVertigoって曲があり高校時代にそれをかなり気に入って聴いていてからこの単語自体も好きになりました。かっこいいじゃん。ばーてぃご。めまい。

 ヒッチコック作品は『北北西に進路をとれ』をだいぶん前に観ているのですが、崖に捕まってるところと、車に乗っているシーンで人と車のフレームを思いっきり風景にはめこんでいるのを覚えているくらいでほかはあまり印象がない。というか寝ていたのかもしれん。そういや『めまい』にも度々そのはめこみ車映像がでてきて笑っちゃった。

 

 この作品はもうあらすじからして面白いですよね。TSUTAYAでパッケージの裏側観た時点で期待度MAXになりました。

 映像的にも素晴らしいのがタイトル通りめまいを起こすシーン。思わず前のめりになるほどすごかった。かなりちゃんとしたアニメーション表現がこの時点で使われてて、しかも効果的で芸術的で驚きました。幾原邦彦っぽい印象を受けた。

 

 んでまあこの物語の核心。

「あなたは私を通して誰を見ているの?」って問題。

 あの女の人は自ら罪を犯しているので自業自得といえばそうなのですが、しんどいですよねあれは。自分のことを見て欲しいのに、自分のことを見ているのに見ていない。

 ただ見ながらずっと考えていたのは、背後に影を見ない恋愛なんて存在するのってことです。

 男性が女性との性行為の中でおっぱいを舐めたり、触って安心するのはその背後に母の存在を見ているからだと思います。安住の地というか、魂のルフランですよね。わたしにかえりなさい。って。

 『Steins;Gate』っていうゲームをやったとき、主人公の岡部とヒロインの牧瀬紅莉栖が恋愛をする。紅莉栖は岡部のことが好きになる。

 ただ本編とは別のドラマCDを聞くと、過去の紅莉栖の父が登場する。そしてそのしゃべり口調が岡部とそっくりなんですね。かなり意図的に似せている。

 本編で紅莉栖の父はかなりあからさまな悪役として描かれています。そして紅莉栖は父親との関係に問題を抱えており、簡単にいえばファザコン的感情を持っている。

 おそらくですが岡部と紅莉栖が好きなファンは、紅莉栖の父が岡部に似ている事実をかなり嫌ったのではないでしょうか。なぜなら紅莉栖が岡部を好きな理由にファザコン的感情が大いに含まれているということになるからです。純粋な1対1の恋愛の背後にいやーな影が見えてしまう。

 自由恋愛が完全なる1対1の恋愛であってほしいと我々は思う。フィクションの中だけの話ではありません。実際に相手が自分の目を見つめているとき、別の誰かを思い浮かべているなんて耐えられない。SEXをしているとき、別の誰かを思いながら声を出しているなんて、そんな事実あってほしくない。でも人間ってきっとそういうものなんでしょう。悪気はなくともそういうふうになっちゃう部分がある。背後に誰かを見ずにはいられない。見ないということはでかいない。完全なる1対1の恋愛なんてきっと幻想だ。でも幻想だってわかってても完全なる1対1だって、そう思えるときがあるんだよ恋愛って。

 だからときには相手を騙さなきゃいけないし、ばれない事が大事。それが優しさ、相手に対する配慮ってことなんでしょう。維持するためにはそれがやっぱり必要なんだよね。

 

 この作品を見てずっとそういうことを考えてた。

 『Vertigo』。大傑作です。