御先祖様の鼻くそ黙示録

鼻くそのように生きた感想を記す

坂本慎太郎『ナマで踊ろう』と吉村萬壱『ボラード病』 二人が描いたディストピアの近似性

 坂本慎太郎の新譜を購入し、だらだら聞いていたところで、非常に似通った点が多い吉村萬壱の『ボラード病』という小説と巡りあったので、この二つの作品を通して考えたことをまとめてみます。

 

ナマで踊ろう(初回盤)

ナマで踊ろう(初回盤)

 

 

 ゆらゆら帝国をはじめ、過去に坂本慎太郎が描いてきた世界は、日本語を音楽に乗せる快楽を重視しており、そこからは直接的なメッセージ性は排除されていました。しかし今回の『ナマで踊ろう』では明確に政治的なメッセージと受け取れる歌詞が載せられています。

坂本慎太郎はなぜ“人類滅亡後の音楽”を構想したか「全体主義的なものに対する抵抗がある」 - Real Sound|リアルサウンド

 上のインタビューでも語られているのですが、坂本には全体主義的なものに対する恐怖というものがある、と。例として巨大なロックコンサートの宗教的なノリというのが挙げられています。

 自分ははじめに坂本慎太郎のアルバムが政治的だと耳にして、「うわ、なんかいやだな。安倍政権批判とかならどうでもいいぞ」と思いました。ただ耳にしてみるとこのインタビューで語られているように、意外に生々しくない。「ハトヤのCM」のようなのどかなメロディーもあいまって、歌詞の直接性が融和されているように感じます。(融和されること自体が恐怖だったりもするのですが)ラピュタの天空いったときのあの神聖な感じ。あれに近いような印象を受けますよね。ゆっくりと時間が流れていてもうどれだけ経ったかわからないような。個人的には『みんなロボットになれる』が好きです。

 

 で、一方吉村萬壱の『ボラード病』。

 

ボラード病

ボラード病

 

 

 これはおそらくですが震災以降を意識した設定で、描かれているのは『ナマで踊ろう』と同じく、その中で高まる全体主義的な、宗教的な熱狂だったりに対する恐怖です。

 ムラ社会の相互監視。同調圧力。結び合い。学校の思想教育。

 『ナマで踊ろう』で描かれたディストピアは遠い未来、何百年後というスケールの中での世界でしたが、この『ボラード病』はその遠い未来と現在の我々とを接続しようとしているかのような距離感で佇みます。『ボラード病』の先の未来に『ナマで踊ろう』がある。

 

 個人的なことを言えば、自分は全体主義に対する嫌悪感は大してない人間で、まあ時代が時代だしそういうもんなんじゃないのと思ったりしています。少なくとも赤紙の恐怖みたいなレベルはまず感じていない。ただこれら二つの作品を通ったあとはちょっと考えてしまいました。

 

 やっぱりすぐ思い浮かぶのはTwitterとか2ちゃんねるですかね。

 叩いていいかのような人が現れたとき場合に、みんなで一斉にどわっと攻撃する。

 佐村河内、小保方、号泣議員。

 無論誤っていることは指摘を受けて当然だし、批判されるのが健全です。上記の三人なんて批判されるでしょそりゃ。ただ、攻撃する側の人間が「あ、攻撃していいんだ」と免罪符を得たように勢いづき、見境なくどわっとやる。好きなだけ気持よく叩ける。そんでマスコミが煽ってまた叩く。これが問題ですよね。実は自分もそういうふうにどわっとやった記憶がないでもない。むず痒い。これって誰もが持っている心理だと思います。Twitterの炎上を2ちゃんねるで取り上げて、それをまとめブログでみた人がまた加勢して火が大きくなってまた…っていう。インターネットはそういう心理を増幅させる機能を果たしていますよね。

 あと他に自分の中で思い当たるのは、ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル(通称タマフル)というラジオ番組。そのコーナーの一つに、MCの宇多丸が毎週一本映画評論をするコーナーがあります。その中でテレビ局が出資したくだらない映画が取り上げられるときがあるんです。タマフルで実際に取り上げられたのなら宇宙戦艦ヤマトの実写版のやつ(キムタクの)とかさ。まあ普通に叩かれまくるわけですよ。で、自分も、まあヤマトは観てないけどこういう映画ってメタメタに叩きたくなる。クオリティが低いのだから当然ですよ。ただそれとは別のレベルでそういう糞映画の場合、そのコーナーに送られてくるハガキとかが妙にイキイキしだすのを感じるのです。「宇多丸も批判してるし好きなだけ批判していいんだ」と一緒になって猛烈に攻撃しようみたいな意思を感じるのです。もちろんそんなの関係なく叩いてる人もいるでしょう。またそういうクソなものを晒して愛でる楽しみ方もあるでしょう。宇多丸がバランスをとろうとしてるのを感じたりしないでもないのだが、全体としてそういう雰囲気を受ける、要素を感じる。自分にとって全体主義に対する恐怖っていうのは政治的なレベルよりもそういうもののほうが実感があります。

 

 作品のはなしに戻ると、『ボラード病』は描写が露悪的なきらいがあり、やや疑問符がつきました。全体主義や同調の快楽っていうのは普遍的にあって、それを吉村さんも描いているのですが、多分もっともっと、もっと気持ちのいいものだと思うんですよね。人と同調することって。終盤に主人公は母の入院をきっかけに同調の快楽を覚えるのですが、その時点では我々読者はあの世界の同調の不気味さをさんざん説かれたあとなので、快楽というのは感じなかった。あそこは快楽を読者にも共有させたほうが効果的だったように感じました。

 同調することって原理的には悪いことじゃないと思うんですよ。連帯とかってそういうことじゃん。安田浩一氏の『ネットと愛国』なんかを読んでると、ネトウヨがデモの行進で大声を挙げる姿が描かれている。引きこもりみたいな大人しい人が初めて「韓国人出てけ!」みたいな感じで声を張りあげたときに、後ろのみんなもそれに続いて、「おーっ!」って、どわっとやる。それが最高に快感なんですよね。思想とか関係なく同調それ自体が気持ちいい。あれなんか読むと、問題の根深さを感じます。左右の対立だけでなく、個人が生きるアイデンティティとここまでもかというくらい深く結びついている。

 

ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて (g2book)

ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて (g2book)

 

 

 そういう意味で『ボラード病』は良作でしたが、テーマ性のレベルで『ネットと愛国』が描いた到達点までは達していないかな、という印象です。

 

 全体主義っていうとみんな戦争だとか、独裁者を連想したりする人が多いと思うんですが、その枠組を一回外して考えてほうがいいと思うんですよね。

 人間が連帯する。社会をつくるうえで同調というのは避けられないことです。というか同調がなければ人は幸福になれない。そのなかでそれが「同調圧力」にならないように「全体主義」に陥らないようにいかに制御していくか、という視点に立ったほうが良いのではないでしょうか。

 

 ともかく二つともいろいろ考えさせられるいい作品でした。

 やはり文章を書くうちに考えがまとまったり気付きがあったり、いいですね。これからもいろいろ感想等書いていこうと思います。

 ちなみにハンナ・アーレントの『全体主義の起源』とか読んでるわけないです。読まずに全体主義が〜とか言ってます。あったり前田のクラッカー。