御先祖様の鼻くそ黙示録

鼻くそのように生きた感想を記す

虫ケラはお前だ!『スターシップ・トゥルーパーズ』

 バーホーベン作品も初めてですね。なんとなしに借りちゃいました。

 馬鹿映画だけど面白かったです。

 基本バトルがめちゃくちゃおもしろいってだけの映画なんだけどこの作品はそれでいいよね。銃を撃って倒すのが楽しい。しかもあのカマキリみたいな敵がなかなか死にやがらないからガンガン撃つんだよね。そんでそれが楽しい。気持ちいい。

 

 そこ以外は大体馬鹿らしいんですよね。というか馬鹿。多分軍国主義みたいなものへの皮肉も入ってるんだろうけど、結構ふざけてる。

 あと設定とかなんかゆるくないですか?SF系の作品ってもっと設定に対する愛情みたいなもの感じるんだけど、これからは感じなかった。自分はSFオタクではないのであまり詳しくはわかりませんが。あの超能力とかどうなんだ。

 

 自分が一番気に入らないのはあの糞女ですよ。最初に主人公が付き合ってるパイロット。

 他の男のところに行くのはいいさ。でもその男が自分の元カレを侮辱しているのを見て注意もしないってどういうことなんだよ。あれぞ糞女ですよ。貴様こそが虫ケラだ・

 それに比べて主人公が付き合ったあの歩兵隊の女は最高でしょう。ベッドシーンで脱ぎかけのTシャツで顔が隠れながらキスをするのがちょーよかった。おっぱいもきれいだし。主人公はあの女を救いにいくべきだった。虫ケラ女など虫に脳を吸われてしまえばよかったのだ。

 

 まあ誰しも虫を銃で撃ちたいという願望はもっていると思うので、そういう気分になったときにおすすめです。

 バーホーベンという監督に関してはちょっとよくわからなかった。こういうおふざけ系なのか?

 

『機動警察パトレイバー 劇場版』&『機動警察パトレイバー2 the Movie』のイッキミリバイバル上映にいってきた

 土曜日にお台場まで行ってきました。

 あそこは以前もドリパスの『GHOST IN THE SHELL』と『イノセンス』の連続上映で行っていたのですが、今回は前回よりもさらに大きな劇場で驚きました。

 以前、ピカデリーにTNGパトの第一章を見に行ったとき、開場が始まる直前のゲートの前には若いカップルもそこそこたむろっていました。しかしTNGの少し前にアナ雪の開場が始まると、若い衆はすっかり消え果て、見事におっさんばかりが残ったというできごとがありました。

 そういう苦い思い出がありましたのでこの広い開場がおっさんで埋め尽くされるのかと、やれやれと思っていたら、意外に若くて綺麗な女の人も多くいて(決して多くはない)パト人気の根強さを感じました。

 

 私はパトの中でも劇パトの大ファンです。1は2回、2は6回くらい見てるかな。

 特に2にはすごい思い入れがあります。

 

 今回1から見たわけなんですが、1が面白いんですよ。自分が思っていたよりずっと。

 いや面白い記憶はあったんだけど、こんなに面白かったんだ、と。

 んで上映が終わったあとに1についてブログにいろいろ書こうと思っていたのですが、忘れた。すぐ忘れた。

 

 なぜか。

 

 何度も観ているはずのパト2がすごすぎたからだ。2を観た直後に1を思い返そうとしても記憶がぶっ飛んでた。それくらいすごかった。多分7度目くらいだが今回が一番おもしろかった。

 

 パト2はとにかくパーフェクト。鑑賞直後にパーフェクトという言葉がまず思い浮かびました。

 

 今回、後藤のあの会議での名台詞でのあと東京が爆破される光景をみて、不覚にも泣きそうなりました。泣くような場面ではありません。

 それは戦争の凄惨さに心動かされたわけではありません。ひりつくようなリアルさに感動したのです。リアルすぎる、と。

 劇場で観たのは初めてですから、そのリアルさがより体験として迫ってきたのかもしれません。ワイバーンのハッキング事件など、虚構としてあった戦争がリアルに、物質的にボカンボカンとなる。ボカンボカンもいいのですが、榊班長の家に後藤としのぶさんが行き、ラジオが流れている。ああいうちょっとしたところが恐ろしいほどにリアルなんですよね。日本に戦争が起こったらこうだろうなって、わかる。

 また、映画として、作品としてのリアルさがあるんですよね。重層的に重なった様々な問題がうねうねうごめく気持ち悪さ、リアルさ。

 

 押井、押井ファンは興味がないとうそぶくかもしれませんが、野明と遊馬の物語も非常に良いと感じました。

 『TOKYO WAR』という小説版のほうにはもう少し野明や遊馬の描写があるんですよね。しかし劇場版にはほとんどない。でてきたときに、「あ、こいつらいたんだ」ってなる。

 ただあの車の中での会話で、何分かけてもなかなか描けないようなところを一瞬で切り取ってるんですよね。

 いつまでも子供だった野明たちが大人になろうとする(ならざるをえない状況に追い込まれる)物語とも読めます。これは作品内で描かれている日本という国と同じことです。現実をつきつけられて、今まで目を逸らしていたものと向き合わざるをえなくなる。そういう部分を少ないシーンで描き切ってしまう。素晴らしすぎます。

 

 今回見て思ったのはやはり押井は現実と虛構がせめぎ合うバランス。そこにこそ本質がある作家だと。ありきたりでつまらない押井語りかもしれませんが、改めてそう思いました。

 好きな作品はたくさんあります。

 『うる星やつら2』、『イノセンス』、『スカイクロラ』。

 その中でも『機動警察パトレイバー2 the Movie』こそ最高の完成度であると実感しました。

 

 ただ同時に思ってしまうのが、現在の押井にこのレベルのものが表現できるのであろうかということ。

 来年のGWには長編のTNGが公開されます。長編は以前の劇パトのような作品になるそうです。

 正直自分は現在のTNGのシリーズでは到底満足できません。劇場版があってこそ価値があると思っています。エピソード5を見る限りものすごく不安になりました。実写下手だし。

 そういうことを考えると、もう彼自体も長くありませんから、良い出来の新作すら見ることができなくなるのではと不安になります。

 

 でもこういう気持ちで追うことができる作家がいるということ自体が幸せですよね。これからいくら駄作を量産しようとも、またそれについて私がどれだけ酷評しようとも、これからも全て観ることになるでしょう。しかも何回も

 だからこれからも作り続けてくださいね押井さん。願わくばアニメで…

 

 

 

クソメンは国境を越える『カリートの道』

 数日前に観ていたのですが書く暇がなかったので簡単に。

 傑作でした。

 デ・パルマ作品で観ているのは『スカーフェイス』くらいで、しかもかなりウトウトしながらの鑑賞であまり記憶に残っておりません。

 だからほぼ初めてみたいなものです。

 似てるなーと思ったのは『ザ・タウン』かな。その土地に根付く運命になんとか抗おうとするもなかなか難しいという点で。

 だらだら寝そべって観ていたのですが、終盤の電車のシーンあたりからは正座で観ていました。「おもしれー」って口に出しそうになるくらいうまく撮れてる。

 他に好きなシーンは船での事件のあと港へ帰る途中、パチーノはショーン・ペン?演じる弁護士にすぐにはキレない。帰ってる途中虚空を見つめている。やっぱり俺ってこうなのかな、逃れられないのかな、みたいな顔をしてる。諦観っていうか。表情が素晴らしいですよね。弁護士の行為に対する感情よりも自らの運命に対してのほうが強いんですよね。本当にいい顔する。

 

 みんないろいろ好きなシーンはあると思うのですが、個人的に興味深かったのは弁護士ですかね。どんどん闇社会とずぶずぶになっていって抜け出せなくなる殺人にまで手を染める彼。

 なんかイケてないんですよねあいつ。髪型もぼっさぼさだし。ダヴィド・ルイスがあれならかっこいいけど、あいつはなんかダサい。パチーノの女がちょっと他の男と踊ってるのを見てキレたりする。もちろん酔ってるのもあるんだけど。パチーノがいいっつってんだからいいじゃん。自分の女でもないのに。

 あれってリア充を僻むクソメンそのものですよね。そういう目線で見るとあいつが闇社会に溺れていく姿もクソメンコンプレックスがきっかけになっての行動に見える。イケてるやつらへのあこがれや嫉妬が彼をああいう道に進めたんじゃないかな。

 と考えると問題は根深いですよね。リア充vsオタクのような対立は日本だけの問題に思いがちだけど、アメリカでも、しかも1993年の時点で存在していたのがわかります。ああいう僻み根性の醜さってのは外から見てると嫌だなあってなっちゃうんだけど、いざ自分の身になると僻んじゃうんだよなあ。イケてないからさ。

東浩紀のもとに帰る旅 『弱いつながり 検索ワードを探す旅』

 一時間で読み終わりました。

 一本の芯を通した人生論的なエッセイ。その一本の芯とは「東浩紀的」であるということですかね。

 自分は東氏の著作に大きな影響を受けていて、『存在論的、郵便的』は難しくて理解しきれなかったものの、全体の8割くらいは読んでいるのではないでしょうか。『波状言論』という過去のメルマガデータが入ったCDも持っているくらいです。

 だって大体において面白いですから。正しさとは別の次元で面白すぎる。小説も評論も全部面白い。最高に知的で刺激的なのです。

 

 で、今作は副題にあるように「検索ワードを探す」というのがテーマになっています。

 確か自分の記憶では、2010年に行われたホリエモン宇野常寛氏とで行われたロフトプラスワンでのトークイベントで、すでにこの検索ワード問題にも触れられていました。ホリエモンがいわば「ネット万能論」のようなものを説く中、すでに彼はネットに対する諦めのようなものを感じていたようです。検索ワードを思いつかないんだよ、みたいなことを言っていた。

 東氏はその後震災を経て、現在は福島第一原発観光地化計画に取り組んでいます。しかしですね、自分はそれにあまり興味がもてず、『思想地図』の観光地化計画シリーズは持ってはいるもののろくに読んでもいない状態です。

 興味がもてなくなった原因は観光地化計画が政治的すぎた、のだと勝手に思っていました。もちろん単に政治の分野にいったのではないのはわかっていましたよ。いろんな分野を横断していることも。ある程度はコンセプトも把握していましたし。でもやっぱ政治だとかつまんないよみたいな気分はあったかもしれない。

 

 ただ今回の本で、やはり東浩紀東浩紀であると。どこにいようと彼は彼であって、面白いなと再認識しました。

 そして面白いだけでなく、最近の自分と皮膚感覚としてかなり近いものを感じました。

 

 「強いネットと弱いリアル」の話。

 例えば私はこの7月になって新たにこのアカウントでブログ、Twitterを始めたわけですが、頑張ってサブカルブログなんかを書いてもね、まったくフォローも読者が増えないんですよ。まったくっていうのは文字通りまったくなわけです。0ですよ、0。超零細ブログです。今は1日10アクセスがいいとこですよ。サイドバーにTwitterアカウントへのフォロー誘導までつけたのに。まあ別にそれ目的でやっているわけではないのでいいのですが。

 それに比べて強い人は倍々ゲームのようにアクセスもフォロワーもがしがし増えていくわけです。リアルでの格差がさらに拡張されてネットに反映されている感覚ですよね。いやというほど実感してる。はっきりした数字だしね。

 

 言葉とモノの問題。

 東氏は以前より電子書籍の登場で本の未来はどうなるか、という問題に触れるとき本が物理的に存在することが重要である。ということを述べているんですね。自分も『GHOST IN THE SHELL』が好きなこともあって、このモノ問題というのをよく考えます。

 6月に阿部共実という漫画家にハマり、『空が灰色だから』という全5巻のマンガを買おうと本屋に行きました。しかし『空灰』は絶賛売り切れ中で、その時手に入れることができたのは3~5巻のみでした。やむなく1、2巻をKindleでダウンロードし、3巻からは本屋で買った「モノ」を読みました。素晴らしい作品で大変に感激しました。

 1ヶ月経ったころ、『空灰』は増刷され全巻が手に入るようになりました。

 このときに自分はなぜか1、2巻を「モノ」として欲しくなり、買っちゃったんですね。Kindle版を持っているにも関わらず。

 で、なぜそう思ったのだろうということを考えました。

 もし仮に作品が情報でであるなら(ホリエモンなんかはこういうことを言いたがる)。デジタルなデータとしてしか価値がないなら1、2巻を「モノ」として欲しくなるはずがありません。情報としてのあの作品はKindle版で事足りています。

 ジル・ドゥルーズは『創造的行為とは何か』の中で

「芸術作品はコミュニケーションの道具ではありません。芸術作品はコミュニケーションとは何の関係もないのです。芸術作品には厳密に言って、少したりとも情報など含まれていません」

 ということを言っている。

 ということをドゥルーズbotがつぶやいてました(読んでない)。ドゥルーズの本意は(読んでないので)わかりませんが、自分はこれらを総合してこう考えました。

 

 つまり芸術の価値とは「体験」であると。自分が『空灰』の1、2巻を「モノ」として欲しいと思ったのは「体験」をリアルなものに保存しようと試みたのではないでしょうか。0と1の羅列には体験を託すことができないと判断したのではないでしょうか。なんというか無根拠すぎるというか。電子的不安とでも呼びましょうか。

 

 「体験」を「モノ」に保存する。

 これって福島第一原発観光地化計画の話とおもくそつながる話ですよね。歴史遺産ってそういうことです。はい話がつながりました。おもくそつながりました。

 んでまあ、このように実感とつながったことで、フクイチ観光地化計画がものすごく身近に感じてきたんですね。地続きになったというか。おもろいやん、と。政治の分野であることは関係がありません。やっぱり東氏は変わってないんだよ。わかってたけどね。ということで東浩紀のもとに帰ってまいりました。フクイチ本読みます。

 

 でもやはり東氏には政治家でなく思想家や小説家であってほしいとは思っています。

 政治家の仕事って最適なバランスを得るための調整みたいなところがあるじゃないですか。それはやはりこまごまとしすぎていて彼の想像力を削ぐように感じるのです。

 そうではなくやはり東氏には思想家として、とにかくめちゃくちゃ面白いことを考えて外部からガシガシを刺激を与え続ける存在であってほしいです。観光地化計画は実践的な部分が多いので、予算だとか、政治家的な調整の部分は出てくるでしょう。だから観光地化計画なんてやめろ、ってことではなく、そんな調整なんかを気にせず、彼の想像力をフルパワーで発揮できる領域をある程度確保しておいてほしいな、と。んでそれは小説なのかなと思ってます。

 

 ところでさきほどの『空灰』1、2巻をモノとしても買っちゃった問題ですが、自分が面白いなって思うのは、モノの1、2巻は読みなおしてないんですね。Kindleでは何回も読み直してたってのもあるけど。

 つまりその「モノ」で読んでいない体験を偽装して保存しているのです。私の1、2巻には。これはなかなかおもしろいなと。

 

 そろそろ終わろうかなと思ったところでふと思ったんだけど、東氏は今43歳ですよね。批評家の佐々木敦氏も46歳のときに、『未知との遭遇』というある種自己啓発、人生論的な本を上梓しました。

 今までの仕事ぶりからして、そのような領域から最も遠くにいる人が、40を超えてからそういうものを書くようになるってのは何かあるんですかね。いや決して否定的な意見ではありませんよ。両氏の両作品とも好きですし。若いときは尖ってて避けてたけど書かないのも不自然かな、とか思ってくるのかしら。40というのは人生の中で何か大きな意味を感じる年齢なのかもしれない。

 まあ偶然この二人が目についただけかな。ではでは。

 

 

 

ドキュメンタリーとはなにかを描いた傑作映画論映画『ライフ・アクアティック』

 以前よくわからんと感想を残したウェス・アンダーソン監督の『グランド・ブダペスト・ホテル』。さすがに一作で判断するのは早計かと思い、過去作を観ました。『ライフ・アクアティック』。

ぴんとこなかったウェス・アンダーソン『グランド・ブダペスト・ホテル』 - 御先祖様の鼻くそ黙示録

 

 結論からいうとかなり面白かった。というか美しかった。

 

 

 どういう話かといえば、海洋探検家兼ドキュメンタリー監督の主人公が、仲間を殺したサメに復讐するために再び海に出る。と書くと『許されざる者』みたいでかっこいいのですが、実際の本人といったらもうずいぶん落ちぶれたクソ感溢れるおっさん。仲間からの信頼も世間的な評価も底まで落ちてる笑いもの。ドキュメンタリーの手法も超絶ヤラセを仕込みまくってて、しかももうあざとすぎるだろっていう。そんで奥さんからも縁を切られるしであーあーあーあーって感じなんですね。

 主人公役はビル・マーレイ。このおっさんはほんとかわいいよね。ちょっとさみしそうな顔してるのが本当に映える。

 犬と別れるのが寂しいところとか結構笑えるコメディ要素も多々あって、楽しめます。自分も声を出して笑っちゃいました。

 あと音楽がかっこいい。まあ自分がDavid Bowieのファンっていうのもあるのですが、いいですねえ。銃撃戦でStoogesが流れたときも超テンション上がった。うひょーって。今もSearch & Destroyを聞きながら書いてる。

 

 まあそういうところもいいんだけど、すげえってなったのはやっぱり最後に仲間を殺したサメと遭遇するところ。 

 ドキュメンタリーってのの本質は「記録」だと思うんですね。観客に現実の記録を、実際に起こったことという前提で体験させる。自分はあまりドキュメンタリーに明るくはないけど、大きくは間違ってないのではないでしょうか。

 この主人公はさんざんうさんくさい演出が入りまくったドキュメンタリー(ドキュメンタリーって実際はそういうもん。というか演出を排除することは原理的に不可能)を撮りまくってたわけだ。

 そうやっていたところにラストでサメと遭遇する。主人公の目的は仲間の復讐のためにサメを殺すことだったはずです。しかし彼らはそのサメのあまりの美しさに目を奪われるのです。復讐のことなどとうの昔のことのように忘れてしまったかのように。美しさにはそういう魔力がある。

 サメは仕掛けたエサだけを引きちぎり去っていきます。

 呆然とする主人公。実はその呆然としている様子を写したものこそがドキュメンタリーのありうべき姿なのです。この『ライフ・アクアティック」という映画の中のあのシーンと、あの海洋探検家チームのドキュメンタリー映画があそこで見事にオーバーラップする。二層の構造がぴたっと重なる瞬間なんですね。それが本当に美しい。

 そのときの主人公の表情を見ていて思いました。もしかすると彼は過去にもこのような稀有な遭遇体験があるのではないか。それがあって彼のドキュメンタリーは評価された。ただそういう体験はめったに訪れるものではありません。評価を維持したい彼は仕方なくその体験を自らの手で演出しはじめ、やがてそれがバレ、名誉も富も失っていったのではないでしょうか。あのサメを見つめる表情からは、過去の感覚がぶわっとぶり返したような感情が読み取れます。実際んとこはどうか知りませんよ。ただ表情だけでそこまで想起させる監督の演出能力。素晴らしすぎるでしょ。

 

 自己言及的にドキュメンタリー、映画論的な構造を見せるだけでなく、それとマッチングした映像センスも素晴らしいですし、なぜ自分は『グランド・ブダペスト・ホテル』が合わなかったんだろうと思わずにはいられません。

 とにかく今作で世界中にたくさんのファンがいる理由ってのがはっきりわかりました。また『ファンタスティックMr.FOX』とか過去作品も観たら感想を書こうと思います。

 

ライフ・アクアティック』、傑作でした。 

 

 

坂本慎太郎『ナマで踊ろう』と吉村萬壱『ボラード病』 二人が描いたディストピアの近似性

 坂本慎太郎の新譜を購入し、だらだら聞いていたところで、非常に似通った点が多い吉村萬壱の『ボラード病』という小説と巡りあったので、この二つの作品を通して考えたことをまとめてみます。

 

ナマで踊ろう(初回盤)

ナマで踊ろう(初回盤)

 

 

 ゆらゆら帝国をはじめ、過去に坂本慎太郎が描いてきた世界は、日本語を音楽に乗せる快楽を重視しており、そこからは直接的なメッセージ性は排除されていました。しかし今回の『ナマで踊ろう』では明確に政治的なメッセージと受け取れる歌詞が載せられています。

坂本慎太郎はなぜ“人類滅亡後の音楽”を構想したか「全体主義的なものに対する抵抗がある」 - Real Sound|リアルサウンド

 上のインタビューでも語られているのですが、坂本には全体主義的なものに対する恐怖というものがある、と。例として巨大なロックコンサートの宗教的なノリというのが挙げられています。

 自分ははじめに坂本慎太郎のアルバムが政治的だと耳にして、「うわ、なんかいやだな。安倍政権批判とかならどうでもいいぞ」と思いました。ただ耳にしてみるとこのインタビューで語られているように、意外に生々しくない。「ハトヤのCM」のようなのどかなメロディーもあいまって、歌詞の直接性が融和されているように感じます。(融和されること自体が恐怖だったりもするのですが)ラピュタの天空いったときのあの神聖な感じ。あれに近いような印象を受けますよね。ゆっくりと時間が流れていてもうどれだけ経ったかわからないような。個人的には『みんなロボットになれる』が好きです。

 

 で、一方吉村萬壱の『ボラード病』。

 

ボラード病

ボラード病

 

 

 これはおそらくですが震災以降を意識した設定で、描かれているのは『ナマで踊ろう』と同じく、その中で高まる全体主義的な、宗教的な熱狂だったりに対する恐怖です。

 ムラ社会の相互監視。同調圧力。結び合い。学校の思想教育。

 『ナマで踊ろう』で描かれたディストピアは遠い未来、何百年後というスケールの中での世界でしたが、この『ボラード病』はその遠い未来と現在の我々とを接続しようとしているかのような距離感で佇みます。『ボラード病』の先の未来に『ナマで踊ろう』がある。

 

 個人的なことを言えば、自分は全体主義に対する嫌悪感は大してない人間で、まあ時代が時代だしそういうもんなんじゃないのと思ったりしています。少なくとも赤紙の恐怖みたいなレベルはまず感じていない。ただこれら二つの作品を通ったあとはちょっと考えてしまいました。

 

 やっぱりすぐ思い浮かぶのはTwitterとか2ちゃんねるですかね。

 叩いていいかのような人が現れたとき場合に、みんなで一斉にどわっと攻撃する。

 佐村河内、小保方、号泣議員。

 無論誤っていることは指摘を受けて当然だし、批判されるのが健全です。上記の三人なんて批判されるでしょそりゃ。ただ、攻撃する側の人間が「あ、攻撃していいんだ」と免罪符を得たように勢いづき、見境なくどわっとやる。好きなだけ気持よく叩ける。そんでマスコミが煽ってまた叩く。これが問題ですよね。実は自分もそういうふうにどわっとやった記憶がないでもない。むず痒い。これって誰もが持っている心理だと思います。Twitterの炎上を2ちゃんねるで取り上げて、それをまとめブログでみた人がまた加勢して火が大きくなってまた…っていう。インターネットはそういう心理を増幅させる機能を果たしていますよね。

 あと他に自分の中で思い当たるのは、ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル(通称タマフル)というラジオ番組。そのコーナーの一つに、MCの宇多丸が毎週一本映画評論をするコーナーがあります。その中でテレビ局が出資したくだらない映画が取り上げられるときがあるんです。タマフルで実際に取り上げられたのなら宇宙戦艦ヤマトの実写版のやつ(キムタクの)とかさ。まあ普通に叩かれまくるわけですよ。で、自分も、まあヤマトは観てないけどこういう映画ってメタメタに叩きたくなる。クオリティが低いのだから当然ですよ。ただそれとは別のレベルでそういう糞映画の場合、そのコーナーに送られてくるハガキとかが妙にイキイキしだすのを感じるのです。「宇多丸も批判してるし好きなだけ批判していいんだ」と一緒になって猛烈に攻撃しようみたいな意思を感じるのです。もちろんそんなの関係なく叩いてる人もいるでしょう。またそういうクソなものを晒して愛でる楽しみ方もあるでしょう。宇多丸がバランスをとろうとしてるのを感じたりしないでもないのだが、全体としてそういう雰囲気を受ける、要素を感じる。自分にとって全体主義に対する恐怖っていうのは政治的なレベルよりもそういうもののほうが実感があります。

 

 作品のはなしに戻ると、『ボラード病』は描写が露悪的なきらいがあり、やや疑問符がつきました。全体主義や同調の快楽っていうのは普遍的にあって、それを吉村さんも描いているのですが、多分もっともっと、もっと気持ちのいいものだと思うんですよね。人と同調することって。終盤に主人公は母の入院をきっかけに同調の快楽を覚えるのですが、その時点では我々読者はあの世界の同調の不気味さをさんざん説かれたあとなので、快楽というのは感じなかった。あそこは快楽を読者にも共有させたほうが効果的だったように感じました。

 同調することって原理的には悪いことじゃないと思うんですよ。連帯とかってそういうことじゃん。安田浩一氏の『ネットと愛国』なんかを読んでると、ネトウヨがデモの行進で大声を挙げる姿が描かれている。引きこもりみたいな大人しい人が初めて「韓国人出てけ!」みたいな感じで声を張りあげたときに、後ろのみんなもそれに続いて、「おーっ!」って、どわっとやる。それが最高に快感なんですよね。思想とか関係なく同調それ自体が気持ちいい。あれなんか読むと、問題の根深さを感じます。左右の対立だけでなく、個人が生きるアイデンティティとここまでもかというくらい深く結びついている。

 

ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて (g2book)

ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて (g2book)

 

 

 そういう意味で『ボラード病』は良作でしたが、テーマ性のレベルで『ネットと愛国』が描いた到達点までは達していないかな、という印象です。

 

 全体主義っていうとみんな戦争だとか、独裁者を連想したりする人が多いと思うんですが、その枠組を一回外して考えてほうがいいと思うんですよね。

 人間が連帯する。社会をつくるうえで同調というのは避けられないことです。というか同調がなければ人は幸福になれない。そのなかでそれが「同調圧力」にならないように「全体主義」に陥らないようにいかに制御していくか、という視点に立ったほうが良いのではないでしょうか。

 

 ともかく二つともいろいろ考えさせられるいい作品でした。

 やはり文章を書くうちに考えがまとまったり気付きがあったり、いいですね。これからもいろいろ感想等書いていこうと思います。

 ちなみにハンナ・アーレントの『全体主義の起源』とか読んでるわけないです。読まずに全体主義が〜とか言ってます。あったり前田のクラッカー。

『THE NEXT GENERATION パトレイバー 第3章』実写押井演出の問題

 『渇き。』と一緒に観ました。ちなみに自分は押井ファンで、映画作品ならほぼ全作品見てると思います。著作も大体読んでる。

 まずエピソード4『野良犬たちの午後』ですよね。

 押井税を納めるつもりで毎回見に行って、金もないのにBlu-rayを買わされているわけですが、惰性的な部分は否めず、まあ面白いっちゃ面白いけどねえ…っていう感じでした。

 ただ今回のエピソード4は面白かったです。今までのTNGの中で一番。

 自分はアクションシーンにこだわり、というかおもしれえとか思ったりしないタチの人間なのですが、今回のアクションはうおおってなりました。UFOのやつとかちょーいいよね。やっぱコンビニって環境がいい。ものがいっぱいあって、並列に機械的に並んでいる感じ。まあこのコンビニものとしての発想自体に押井イズムがふんだんに盛り込まれているわけですが。まあとにかくエピ4は面白かったですよ。ちょっとふざけすぎかなと思わないでもないけど。凶悪犯役の波岡さんって『パッチギ!』の在日包茎野郎の子ですよね。

 

 んでエピソード5『大怪獣現わる 前編』

 押井作品はほとんど観てきて、ダレ場にも慣れてるし全然あのラーメン作ってるとことかいいんだよ。

 でもあの主役の女優さんだよ。松本圭未。

 熟女に脱がせるとかは全然抵抗ないんですよ。ただもう存在がなんか不快になるんですよね。芝居とか。浜辺でサーフボードがいっぱいあるとこの棒読みとかやばくないですか。自分はジブリの棒読み役者ですら違和感なく受け入れられるくらい演技ってものに興味がないんですが、これはさすがにきつかった。衣装の適当感もそれに上乗せして不快感を煽る。なんなのあのラフな感じ。なんかキツいんだけど。もうちょっと色味とかないの。もうちょっと考えようよあれ。中学生みたいじゃん。そういうキャラだとしてもさあ。あんな格好してるやついないよ。

 というか押井の問題だと思うんだよな。多分だけど押井は脚本に書かれている文字を一字一句違わず声に出させてるんじゃないかな。だからしゃべり言葉としていちいち違和感が残る言葉だったり、語尾だったりになる。とくに松本さんのときの違和感がすごかったです。確認したら、このエピソードはやはり押井の単独脚本なんですね。やっぱりなあって感じ。だから脚本自体はやっぱり他の人に書いてもらったほうがいいんじゃないかな。アイデア出しは押井で、それを実写用に書き直してもらうと。

 あと途中まであの怪物を故意に熱海市長が起動させてるみたいな話かと思ってたんだけど、違うのか。まじで怪物なのか。ちょっとしばらくしたら観返してみます。まじで怪獣のわりには市長が焦ってなさすぎでは。まず焦ってから企みはじめるってのならわかるけど。

 まあやっぱ押井はアニメだよなと思った。というか思っちゃった。仮に実写でもアニメと合成したような形にしないときついかも。まあでもやっぱまだ前編ですし、後編もなんだかんだで楽しみにしてますけどね。

 ちょっとオーディオコメンタリー聴いてみます。あとこのあとアオイホノオ楽しみ。